さいきょうのCode of Conductを求めて

こんど新しく勉強会を立ち上げるのだけど、2020年に新規コミュニティを立ち上げるのは、自分が今までやってきたような勉強会(Xamarin.Forms読書会とかmono meetingとか)を作ってきたようなのとはだいぶ状況が違うようだ。特に最近よく話題になるのはCommunity Code of Conduct(CCoC, CoC)に対する何かしらの意思決定を求められる、というところだろう。

今回いろいろ考えてCoCをまとめることにしたのだけど、一般的なCoCに比べてだいぶ大きな改善を施したので、それに至るまでにいろいろ検討したことを参考までにまとめておきたい。

目次

完成品

この行動規範は、コミュニティイベント参加者のコミュニティイベントに関連する行為についてのみ適用されます(被害者や視聴者がコミュニティ参加者に限定されることはありません)。

このコミュニティのイベントにおいては、参加者には、性別、性的自認・性的指向、年齢、障害、身体的特徴、人種、民族、宗教(あるいは無宗教)、技術的指向などを理由としたハラスメントの無い状態を維持すべく行動していただきます。コミュニティ主催者は、コミュニティのために、コミュニティ参加者によるいかなる種類のハラスメントも歓迎しません。性的な意図での画像等の表現は、イベント会場での発表や歓談、Fediverseその他のオンラインメディアを含め、コミュニティイベントに関連するものとしては不適切であり提示しないものとします。

違反行為の態様によっては、このコミュニティでは退席を求めることもあり、また以降の参加を認めないこともあります。有償イベントの場合、払い戻しを受けることはできません。しかし、誰もが問題を意識せずに違反行為を行う可能性があります。この行動規範は問題を改善するためのものであり、実効的な改善が期待できるうちは違反を繰り返さないよう注意するに留めることを目指します。

この行動規範に反する問題のある行為を受けたり、困っていそうな人を発見した場合は、コミュニティ運営メンバーに連絡し対応を求めてください。主催は参加者のみなさんが安心して参加できるために必要な処置を、予防的なものも含めて実施します。コミュニティ運営メンバーによる違反行為についても同様に情報提供を求めますが、十分な対応が期待できない場合はFediverseなどのソーシャルメディアに助けを求めてください。ハラスメント処分について不満がある人も同様です。ハラスメントに該当するか否かは規範的な判断が不可避であるため、主催者と当事者では判断が異なることがあり得るためです。

契約書などの規約に著作権は存在しないので(船荷証券事件)、無断で自由に複製したり、自分たちのCoCに取り入れたり、好きなように使っていただいて問題ない。

2022/12/19追記: 本文を一部改定し、"Twitter"をSNSの例示から除外し、Fediverseに置き換えました。

2023/02/03追記: 「主催は参加者のみなさんが安心して参加できるために必要な処置を、予防的なものも含めて実施します。」という一文を途中に追加しました。コミュニティに安心して参加してもらえるためには、主催はCoC違反と判断するか否かに関わらず「当事者の安心を確保するため」に(合理的な範囲で)対応することを明示的に宣言するものです。

CoCの本質は何か

CoCの策定について論じる前に、CoCの本質的な性格について少し前提を共有しなければならないだろう。一般的なCoCとは、実効性(処分)を伴う私的社会集団の規則として実装された法あるいは規範である。

「実効性(処分)を伴う」というのは、CoCに違反した者に対して、コミュニティへの不参加や、法的に有効に支払った参加費の返還を伴わない役務(債務)の不履行が正当化される、ということだ。当事者の合意が無いのに債務を不履行とするのは、法律的には不法行為だ。法的な不利益処分を伴うのだから、本来は「CoCは単なるガイドラインである」という(主にあいまいさに対する)釈明は通用しない。CoC違反による処分は、コミュニティ活動を違反行為によって妨げられるという損害を抑止するという理由で法的な後ろ盾を得る。

「法あるいは規範」というやや中途半端な表現を用いたのは、ローレンス・レッシグがCODEで提示した古典的な四規制力(法、規範、市場、アーキテクチャ)では自明に分類できなかったためなのだが、法律のような強制力を伴う一方で、その私的社会構成員の意思を反映しなければならないという憲法も無く、恣意的に策定される危険性がある、という理解にもとづく表現だ。これを規範に近づけると、究極的にはCoCが無い状態である(構成員の良識に100%依存する、あるいは主催者がそう言明するような事態)。

CoCを策定するのであれば、それは健全な法とならなければならず、参加者の合意(すくなくとも理解)が得られる必要がある。2020年現在は、CoCのありかたを巡って、さまざまな立場があり、それらが衝突している状態にあり、このような闘争状況においては、規範に近いルールの制定であっても、策定内容をめぐる合意について、法律と同レベルの正統性(規制根拠)が必要になるはずだからだ。

また、人の自由を拘束する、特に表現の自由を拘束するものでもあるから、法律に関する表現の自由を制限する場合の正当化に要求される二重の基準なども、適切に満たすことを目指さなければならない。

規則とは雰囲気で身勝手に規定してはならないものであり、策定者は規則の策定を拘束する規則や理念(法律であれば憲法)を遵守しなければならない。「CoCを策定しろ」と要求する者は、コミュニティの代表者に対してそれだけの覚悟を示せ、と言っているのに等しいということを自覚しなければならない。そして残念なことに(?)、現状ではその要求はどちらかといえば妥当なものであると自分は考えている。

CoCを策定することに対する批判的議論とそれらへの対応

CoCの策定にあたっては、そもそもCoCを策定すべきか否か、という意思決定がある。最近はCoCを策定しないだけで非難される・ペナルティを受ける・「差別」される*1という風潮があり、CoCを制定「しない」という決定それ自体が意味のある意思決定になっている状態だ。

CoCを「策定しない」ほうが望ましいと考える立場は、(おそらくアナーキズムにも類する議論が既に多数あるだろうが)自分が理解している範囲だと概ね次のような論理がある。

他人の行為を「禁止」できる「コミュニティ」とは一体何者なのか?

この問題を解決するためには、「コミュニティ」における活動とは何を指すのか、について明確に定義する必要がある。CoC違反に基づく処分を執行することができないのであれば、それはもはや規則ではないし、正当な権利もなく他人の行為を禁止する行為は厳しく制限されなければならない(究極的には業務妨害罪にもなり得る)。

具体的には、コミュニティ活動とは無関係なTwitter上の投稿内容が差別的であったり性的であったとしても、それを理由にコミュニティから排斥することは許されない。それはコミュニティ活動ではないからだ。コミュニティ参加の場たとえばセッショントークにおいて差別的な発言をする「おそれ」がある、と主張する場合には、その「おそれ」は具体的なものでなければ、法律における表現の自由の規制を正当化する「二重の基準」を満たしていない。

なお、CoCを遵守すべき主体はコミュニティ参加でありその守備範囲であるイベント等に付随する場合に限られるが、言及される対象はコミュニティ参加者に限られない。これは現時点で参加していない人の新規参入を妨害してはならないためである。

参加者が合意していないものを強制できるのか?

民主主義社会において、法律は主権者たる国民を代表する国会(日本国の実装の場合)が策定する(そして国会議員は憲法に拘束され、その立法内容は憲法に反してはならない)。法律の場合、国民に法律を遵守する義務があるのは、それが間接的には自らが定めたためである、という理屈で正当化される。憲法学には憲法制定権力は何であったか、という論点で議論がなされるし、刑法で言えば、罪刑法定主義明確性の原則といったかたちで実装されている。

CoCにはこれが無く、あくまでコミュニティ運営者が身勝手に策定しているものだから、少なくとも参加にあたって事前に十分に提示して同意してもらう必要がある。

強制力があるかないか、という問題で言えば、CoCを「執行」出来る場面は限られている、ということは言える。限られてはいるが無いわけではない、という程度のものなので「それならば無いほうがマシ」という再反論は有効だ。

一方で「CoCは憲章であり違反に対応する手続きを定めていることで差別等への抑止力になる」という指摘はあり、この点では具体的な処分が機能しなくても意味があるといえる。

CoCに合意できない一部のメンバーを積極的に排除するために規定するものなのではないか?

CoCを策定する行為そのものが差別的な意図に基づいていないことは必要条件だ。特定個人を狙い撃ちで排除するために定めるCoCの条項は原則として無効になるべきものだ。排除された者が「差別的だ」と感じたら、その主張をきちんと取り上げて判断する公正な機関が必要だし、無ければSNS上でコミュニティが非難されることになる。

ここには三権分立の機能していないコミュニティという組織に特有の問題があり、コミュニティ運営者が自ら定めたCoCおよびそれに基づく処分について、自らが違反であると判断することはおそらく稀なので、公正な判断機関に準ずるものとしてSNS等における「裁判」が機能する余地がある。SNSポピュリズムで動く側面があり公正であるとは言いがたいが、少なくとも別の視点をもたらし得る存在ではある。排除される者がSNSに助けを求められるということを、少なくとも明記しておくことは、より公正なルールを担保することに繋がる。

善良なコミュニティには「ルール」を規定する必要はない。「真面目な」生徒が大半を占める中学校・高校には校則がほとんど無いではないか?

これには部分的に正しい側面があるが、試験等で生徒をフィルターしてきた学校とは異なり、CoCを規定しなくても問題がないというような議論が出てくるくらい一般的なコミュニティはほぼ「差別的であってはならない」だろうし、どんな参加者でも最初は歓迎する義務があるはずだ。となると、「善良な」構成員しか集まらない、という主張は、一般的には論理として成り立たないといえる。

違反の判断基準が恣意的ではないか?

正当な批判であり、100%対策されているので問題ないと反論することは論理的に不可能であると考えられる。

これは刑事法では「規範的」判断といわれるもので、たとえばわいせつ物陳列罪における「わいせつ」の範囲は何か、といった、明確な答えのない問題になる(そのため同罪には根拠が無いという批判も有力だ)。CoCの場合は、単に「差別はいけません」のような言い方では明確性の原則に反するので、少なくともどういう項目で差別該当性が判断されるかを列挙することが望ましい。

ただ限定列挙にするほど厳密にするのは難しいかもしれない。理想をいえばCoCは常に更新されるべきであるが、現実には追いつかないだろう。フィクションを前提にした規則は、空洞化し悪用される可能性が上がる。

いずれにしても、問題となりうる「曖昧さ」を可能な限り縮小して、CoCが無いことによる不利益と比較衡量して納得してもらうしかないだろう。

処分の有無の判断基準が恣意的ではないか?

正当な批判であり、100%対策されているので問題ないと反論することは論理的に不可能であると考えられる。

これは刑事法でも同様なのだが、犯罪に対して処罰が固定されることは通常はあり得ず*2、通常は情状を酌量される。また通常は初犯に対しては執行猶予がつく。法律に恣意的な運用の問題が無いわけではないが、法律でも同程度の問題が生じているので、少なくともCoC固有の問題ではない(規則を定めれば定めるだけ恣意的な処分が世の中に増えるということになるのだから、「法律もそうだから問題ない」という反論は成り立たない)。

一方で「公平性を担保するため、常に退会処分とする」といった運用に傾くと、同じ違反行為を犯すならより悪質な行為に走るということにもなる(饅頭を盗み食いしても殺して財布を奪っても死刑なら、後者のほうが利益が大きい)。「注意」のような処分すなわち執行猶予がつくほうがコミュニティ全体としての安心感が上がるはずだ。

こういった対策で問題の生じる可能性をなるべく縮小して、CoCが無いことによる不利益と比較衡量して納得してもらうしかないだろう。

CoCで策定されるべき事項とそうでない事項を検討する

2020年時点で議論されている「CoCは必要である」という議論に一般的に欠落しているのが、次のような問題に対する真剣な検討である。

  • CoC適用の公平性担保
  • 正当な理由のない禁止の禁止

これらはいずれも「コミュニティ運営を拘束し負担を大きくする」ものである。自己中心的なコミュニティ運営者がこれらの問題や議論を避けるとしてもそれは本能だが、正当化される本能ではない。これらの議論を回避することで被害を受けるのはコミュニティ参加者なのである。

CoC適用の公平性担保、特にSNS等に訴えかけられるという次善策の提示

三権が分立した法律の世界のイデアにおいては、立法者と司法者は別個の機関であり、これによって法の公平な執行に対する期待値が上がる。CoCの対象であるコミュニティには通常そのような体制は無い。しかし、コミュニティ運営者が「差別はいけません」などと言いながら、一方では自分の嫌いな参加者に対して差別的に待遇していたら、CoCは正当化しえない。こういう場合に備えて、まず運営者もCoCに違反する可能性があることや、そのような場合に被害者がどのような対応を取ることが出来るのか、提示しておくことは重要だ(もっとも「SNSで訴えかけると良い」というくらいしかできないが)。

SNSで訴えかけることが出来る」と言明しておくことにはもうひとつの効果がある。「SNSで公に指摘するべきではなく、運営に相談すべきである」という言い分を否定することができるのだ。SNSで指摘するのは本人がしたいからそうするのであって、それを強制的に隠蔽するべきではない。もちろん運営が適切に対処していて、被害を受けたという主張が正しくなさそうであれば、虚偽を拡散したという非難を免れることはできないが、それは本人の責任だし、「被害を100%立証できなければ公に発言すべきではない」という主張は、個別の事実関係なしには語れない以上、妥当ではない。被害者が被害を受けたという事実を、本人の意思に反してコミュニティ運営者が隠蔽するような状態を、コミュニティ運営が正当化することはありません、という意思表明だ。

もちろん、運営が相談されたら対応するのは当然のこととして、CoCに規定する。

正当な理由のない禁止の禁止と「非技術的なノイズ」問題

CoCは強制力のある法としての側面があるのだから、正当な理由のない禁止条項は排除されなければならない。一方で、CoCは行為規範として容姿等に言及する行為を禁止対象として列挙するのが一般的だ。

この禁止を正当化する理由としてよく挙げられるのは「外見・容姿に関する言及は非技術的な評価であり、(技術的な勉強会においては)ノイズであるから有害である」という立て付けの議論だ。もうひとつ「外見・容姿に関する言及は身体的特徴に関する差別的なものである」という考え方がある。自分は、一般的には後者を否定する余地はなく、禁止は妥当であると考えている。前者については、状況に応じて禁止すべき時とそうでない時があると考えている。

非技術的な情報が技術勉強会においてノイズになることは間違いない。しかし「ノイズであれば排除して良い」ということは必ずしも言えない。二重の基準論で考えれば、ノイズを排除しなければ他の利益が損なわれる(損なわれた)など、表現を規制するに足る正当な理由が必要になる。外見に(非差別的に)言及する*3参加者がいた結果、まともに勉強会として参加できる雰囲気ではなくなった、という事態があれば、それは禁止に値する有害なノイズであったと言える。

何がノイズになり、何がノイズにならないかを事前に予測するのは、多くの場合は容易ではないが、一方で法の執行には「予見可能性」が無ければならない。独自の視点で「この発言は差別的ではないか」と気付く参加者もいるかもしれないし、言われれば同意する参加者もいることだろうが、発言者にそのような意思が無かった可能性をきちんと考慮し、まずは配慮を促すという対応が必要である。「望ましい」ではなく「必要である」とする根拠は「予見可能性」だ。人は自らが予見できなかった行為・結果について責任を問われることはない。故意が認められないためだ。

また発言者も含め他の参加者が不同意を表明する自由は、必ず守らなければならない。

「非技術的なノイズ」の問題は、参加者がSNSなどで外見・容姿について言及する場合だけでなく、講演者が自ら非技術的な興味を引く目的で外見を調整する行為にも当てはまる。これを「どこまで許されるか」という議論にすると答えの見えない問題になるが、視点を変えて、たとえば外見を整えるために参加者の手を借りたり「いい写真」の撮影を依頼するような行為があれば、それは非技術的なノイズを増やす故意があると言える。

同様に、外見・容姿にかかる言及は「優遇」であることも多く、「被害者の同意」がある場合もある。これは他の講演者や参加者と相対的に比較する状況や側面があれば明確に有害だし、そうでない場合でも参加者が自らの容姿・外見等を意識させられるような状況が生じるのであれば、それは差別的言及である。特定メンバーに対する外見的な優遇は外見的な差別であることを意識すべし。

いずれにしても、容姿・外見等に関する言及があった場合は、当人らがネガティブに感じるようなものであれば十分にCoC違反の条件を満たすし、そうでない状況でも当人の故意の有無などをきちんと個別具体的に把握して、実害のあるものは排除するよう「毅然と」=公正に対応する必要がある。単に積極的に科罰的に振る舞うことを「毅然とした対応」と勘違いしてはならない

障害からの回復という目的を忘れない

人は誰でも失敗するし、これはCoC違反についても同様だ。CoCは違反者を糾弾するために存在するのではなく、問題を是正し再発を抑止するために存在する。CoCに違反した人は(その判断に同意するなら)反省等を示して再発を防ぐよう気をつければ良い。「気をつける」以外の対策がなければそれは単なる精神論であり再発する可能性があるのだから、具体的な改善案が無いのなら再発を弾劾してはならない。

ここまでの項目ではコミュニティ運営者により大きな責任が課せられるような内容が続いたが、運営者も万全ではないし、CoCはコミュニティ運営者が間違えることを想定していなければならない。判断ミスの回復に務めるべきではあるが、単に判断を誤ったことを理由に直ちに退任させられたらそれは運営者に対する不正なサンクションである。クビは改善が期待できなくなってからで十分だし、処分の公平性は運営者に対しても妥当する。

カジュアルに失敗し、カジュアルに問題を指摘し、カジュアルに改善することが、CoCを据えるコミュニティが目指すべき状態である。

さいきょうを目指して実装されたCoC

以上のようなことを考えながら、最初は3年前に自分が翻訳したcommunitycodeofconduct.comのやつをコピって多少いじるだけにしようと思っていたのだけど、冒頭に挙げたもののように、だいぶ書き換わることになった。CoCは法の世界のように憲法と法律が分離していることはなく、すべてが単体で完結しているので、その中に憲法的な「代表を縛る」ための条項を公平性の担保としていくつか追加することになった。実体法と手続法も一体化しているが、これは一般的なCoCも同様だろう。

近々公開する勉強会でこれが採用されるかどうかは未定だが(コミュニティは自分が作るとしても自分が恣意的に全て決めて良いものではない)、採用されなくても誰かしらの指針になると良いなと思っている。

最強のルールとは、みんなに気持ちよく遵守してもらえるようにフェアに設計され、違反行為にもインクルーシブに対応できるようなソフトローであると自分は考える。

追記: フィードバック

内容の語句にはいろいろ選択肢があるはずなので、自分のスタイルに合わせて調整するのが良いでしょう。

*1:「差別を受けたと感じた者がそう表明した」場合は、少なくともその気持ちをリスペクトすることが求められる。差別に配慮する人間ならそう考えるはずだ。

*2:是非はともかくとして外患誘致罪のような例外がある

*3:差別的に言及する行為が容認されないことは書くまでもないだろう。